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この話は現在連載中の話がある程度収まったのちに続きを書く予定です。
※※※※
―――私は誰だ?
浮上した意識と共に男のほの暗い脳裏から浮かんだのは、そんな問いだった。
(私は、誰だ……?)
今度は意識して、男は口の中で小さくその問いを転してみた。しかしそれに対した言葉は霞んだ記憶の中に見当たらず、得体の知れない焦燥だけが胸中でその存在を鈍く主張してくる。
私は。
わたしは。
わたし、は……―――
繰り返す。その終わりを知らぬ行為の狭間から生まれ始めたのは、紛れも無い狂気だったのだろう。重ねた言葉は澱となって体表を覆い隠し、一層己の正体を闇へと突き落とした。
―――私はっ!!
自意識を失いかける、その恐怖に発狂しそうになった瞬間、しかし突如として降ってきた女の声が、それを遮った。
「―――!」
高く、透明な声は、硝子に似て体を覆う黒い澱を切り裂いていく。光が、亀裂から男の姿を徐々に照らし出す。
「―――!」
女が繰り返す、その音韻が一つの名前だと気付いた瞬間、澱は全て取り除かれ、男は満ち満ちた光の中で漸く己の姿を見出した。
(そうだ、私は……)
固く瞑っていた目を、男はぎこちなく開く。正しい意味で光を得た彼の目には、泣き濡れた女の顔が光輝を纏って映し出されていた。
*
「クドラ、ねえクドラ、聞いてるの?」
肩を揺すられ、閉じていた瞼を持ち上げる。午後の微睡みに霞んだ視線の先には、こちらを覗き込む様にして睨み付けてくる女の姿があり、クドラは彼女の不機嫌を察して苦笑した。
「もう、また人の話を聞かないで寝てたわね?」
「すまん」
凭れていた椅子から背を離し、見慣れた濃茶の瞳を見返して、真摯に謝る。そのついでに柔らかに波打つ煉瓦色の髪を撫でれば、彼女―――ミランは気勢を殺がれたかのか、色濃い眉でハの字を描いた。
クドラが女がその表情に至った理由が分からず小首を傾げると、彼女は首を緩く振って吐息混じりに小さく笑う。
「何か、クドラが直ぐ謝るのも、変な感じ」
「そうかな?」
「そうよ。だってあなた、いつも私が怒ると屁理屈をこねてたじゃない」
そうだろうか。そうなのかもしれない。
肘掛けに置いてあった手で顎を撫で、言われた言葉を反芻すれば、確かに記憶に思い当たる節がある。
「……酷く心配をかけた後だからな。殊勝になっているんだ」
「それ、普通自分で言うかしら」
言葉に険はあるものの、先の困った様な微笑とは違い、ミランは朗らかに声を上げて笑った。
彼女の声は、硝子細工の鈴に似て、耳に心地よい。笑うと一層ころころと軽やかに転がる声は、くしゃりと愛嬌に満ちた笑顔も相俟って、いかなる時であろうとクドラを幸福な気分にさせる。
だが、その声が収まる頃には、彼女の少し太めの眉は再び萎れていた。
「でも、さっきはあんな事言ったけど、あまり無理はしないで。眠気を覚えたら素直に言って。それだって、こないだの後遺症なんだろうから」
「ああ……」
ぱちり、ぱちりと大きな目が瞬きで語る心情を、クドラは理解しているつもりだ。だから彼は頷いて、不安に曇った女の頭を抱いた。
そのまま深く息を吸い込むと、胸に柔らかな藁と薬草の香りが満ちる。その彼女特有の香りは、クドラにまだ遠くは無い過去を彷彿とさせるのに十二分な切欠となった。
*
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―――私は誰だ?
浮上した意識と共に男のほの暗い脳裏から浮かんだのは、そんな問いだった。
(私は、誰だ……?)
今度は意識して、男は口の中で小さくその問いを転してみた。しかしそれに対した言葉は霞んだ記憶の中に見当たらず、得体の知れない焦燥だけが胸中でその存在を鈍く主張してくる。
私は。
わたしは。
わたし、は……―――
繰り返す。その終わりを知らぬ行為の狭間から生まれ始めたのは、紛れも無い狂気だったのだろう。重ねた言葉は澱となって体表を覆い隠し、一層己の正体を闇へと突き落とした。
―――私はっ!!
自意識を失いかける、その恐怖に発狂しそうになった瞬間、しかし突如として降ってきた女の声が、それを遮った。
「―――!」
高く、透明な声は、硝子に似て体を覆う黒い澱を切り裂いていく。光が、亀裂から男の姿を徐々に照らし出す。
「―――!」
女が繰り返す、その音韻が一つの名前だと気付いた瞬間、澱は全て取り除かれ、男は満ち満ちた光の中で漸く己の姿を見出した。
(そうだ、私は……)
固く瞑っていた目を、男はぎこちなく開く。正しい意味で光を得た彼の目には、泣き濡れた女の顔が光輝を纏って映し出されていた。
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「クドラ、ねえクドラ、聞いてるの?」
肩を揺すられ、閉じていた瞼を持ち上げる。午後の微睡みに霞んだ視線の先には、こちらを覗き込む様にして睨み付けてくる女の姿があり、クドラは彼女の不機嫌を察して苦笑した。
「もう、また人の話を聞かないで寝てたわね?」
「すまん」
凭れていた椅子から背を離し、見慣れた濃茶の瞳を見返して、真摯に謝る。そのついでに柔らかに波打つ煉瓦色の髪を撫でれば、彼女―――ミランは気勢を殺がれたかのか、色濃い眉でハの字を描いた。
クドラが女がその表情に至った理由が分からず小首を傾げると、彼女は首を緩く振って吐息混じりに小さく笑う。
「何か、クドラが直ぐ謝るのも、変な感じ」
「そうかな?」
「そうよ。だってあなた、いつも私が怒ると屁理屈をこねてたじゃない」
そうだろうか。そうなのかもしれない。
肘掛けに置いてあった手で顎を撫で、言われた言葉を反芻すれば、確かに記憶に思い当たる節がある。
「……酷く心配をかけた後だからな。殊勝になっているんだ」
「それ、普通自分で言うかしら」
言葉に険はあるものの、先の困った様な微笑とは違い、ミランは朗らかに声を上げて笑った。
彼女の声は、硝子細工の鈴に似て、耳に心地よい。笑うと一層ころころと軽やかに転がる声は、くしゃりと愛嬌に満ちた笑顔も相俟って、いかなる時であろうとクドラを幸福な気分にさせる。
だが、その声が収まる頃には、彼女の少し太めの眉は再び萎れていた。
「でも、さっきはあんな事言ったけど、あまり無理はしないで。眠気を覚えたら素直に言って。それだって、こないだの後遺症なんだろうから」
「ああ……」
ぱちり、ぱちりと大きな目が瞬きで語る心情を、クドラは理解しているつもりだ。だから彼は頷いて、不安に曇った女の頭を抱いた。
そのまま深く息を吸い込むと、胸に柔らかな藁と薬草の香りが満ちる。その彼女特有の香りは、クドラにまだ遠くは無い過去を彷彿とさせるのに十二分な切欠となった。
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