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サイトに置く程でも無い話パート1。
かなり適当です。


※※※※※


 公園の茂みに埋もれる様にして丸まった『それ』は、カナンの顔を見上げた瞬間、確かにこう鳴いた。


「にぃ」


【ネコを拾った日。】


 地球を基点としたままに、人類が宇宙へと活動領域を広げて早数世紀。人工第二太陽系上に、一つのコロニーがあった。

 住居型コロニー【J908‐β】―――通称【オルトリス】は、その日偶然春一番と称し、強風が設定されていた日だった。
 コロニーによっては例外もあるが、天災に達する程でさえ無ければ、四季の巡りをなるたけ母星に近付け様と言う考えは、イミグリント――地球から移住してきた人々、またはその子孫の総称だ――の中でも根強い。その為住居コロニー毎によって、実際に模した地域をなぞった気象設定がされているのが大抵だった。
 オルトリスでも例に違わず、地球の小地区で起きた物と同等の風に煽られた帰宅途中のカナンが、迂闊に手元の書類を手放してしまったのは一つの不運であり、また、遥か遠い未来に振り返る事で漸くそれと知れる、小さくも確かな幸運でもあった。
 とは言え、勿論現時点でそれを知らない彼女にとって、訪れたアクシデントは忌々しい物でしかないのだが。
「くそ……!」
 口の中で小さく呟いた、決して上品とは言い難い悪態は、軍属してから覚えた物だ。言葉と共に舞い上がった紙切れを追った先に、その公園は在った。
 ひらり、ひらり。もう遅い時刻が故に人気の無い公園で、紙はカナンを笑うかの様に空を舞う。
 特殊なモルタルで舗装された歩行路とは違い、公園の土で出来た路面には昨夜の雨の名残が所々にまだ残っている。
 今の時代にも紙が重宝されているのは、印刷の読み易さが大きいが、汚れ易いのもまた大きな欠点だ。
 せめてぬかるんだ場所には落ちてくれるなよ、と。願った心が通じたのかは分からないが、不幸中の幸いと言うべきか。書類は地面では無く、観賞用に敷き詰められた柔らかな植え込みへと、最終的にその身を休める事に決めたらしい。
 次の風が吹かない内に素早く逃亡者を確保したカナンは、その白い体に水滴や一点のシミも無い事を確かめ、漸く安堵の息を吐いた。
 今度は同じ過ちを繰り返さない様にと、書類をアタッシュケースに仕舞おうとした時。カナンは視界を掠めた物体に、ぎょっとその身を仰け反らした。
「何、だ……?」
 ぺそり。植え込みの下から、二秒前には存在しなかった紐状の『それ』。茶色く、直径三、四センチ程の長い『それ』に、カナンは一瞬蛇か何かかと狼狽えたが、どうやら違うらしい。冷静になれば、コロニーに蛇がのさばっている事等、誰かが放逐しない限りは有り得ないし、そもそもに昨今の蛇には短毛ながらも『毛』が生えている等、聞いた事も無い。
 だが、その正体が蛇で無かった所で、カナンの困惑は解けるには至らなかった。一見猫の尻尾にも見える『それ』は、しかしながらに猫の物にしては規格外に太く、長かったからだ。
(……あからさまに、怪し過ぎるだろ)
 内心での呟きが、もしかしたら無意識に口から出ていたのかもしれない。
 がさり、大きく揺れた茂みに、カナンは逃亡をするか、はたまた軍属の人間として得体の知れないそれを捕獲するかに、一瞬だけ悩む。その間にも、茂みの揺れは大きさを増し。
「にぃ」
 茂みの向こう側から現れた、『それ』。恐らく、奇怪な尾の本体だろう、『それ』。
「……」
 視界に映った『それ』に、カナンは固まった。美術館の彫像の様に、その動きを停止させた。脳内に全てのエネルギーを持っていかれたが故の、結果だった。
(何だ、『コレ』は……)
 何だ、『コレ』は。
 もう一度自問自答してみるが、答えはやはり出て来ない。
 もしや目の錯覚かと、我ながらに馬鹿げた現実逃避に一度目を瞑って見るが、再び瞼を上げた先には、やはり先と変わらない光景が広がっていた。
「にぃ」
「……」
 カナンと視線が合い、『それ』は鳴く。
 猫に似て、けれど根本的な音質が違うそれは、正に『それ』の見掛けその物だ。
 詰まる所。

 『それ』はカナンとそう変わり無い大きさをしていた。
 『それ』はカナンよりも大きな焦茶の瞳を持っていた。
 『それ』は所謂霊長目ヒト科に極めて近い外形を取っていた。
 ……と言うよりも、完璧に人だった。その三角状の毛の生えた耳と、あの長い尾さえなけば、の話だが。

(……人の亜種、という説は、)
 有り得ない。
 現代では特定指定区域に於いて人類の遺伝子操作も研究されているが、こんな一部の特徴のみが顕著な生物は存在し得ない筈だ。第一に、猫と人では染色体数からゲノムまで、かけ離れているにも程がある。
 尾っぽだけなら先祖返りとしてまだ納得出来たかもしれないが、進化の分岐点からして違う耳の形状だけで、その仮説も全否定される。
 では、この妙な耳と尻尾の正体は何なのか。
 数秒考えた後に、とある単語がカナンの脳裏に閃いた。
「コスチュームプレイ」
 確信を持って声にするも、けれど猫モドキはきょとんと目を瞬かせただけだ。そのまま彼――便宜上、カナンは猫モドキを人間と仮定した――はほっそりとした首を傾げて。
「……」
 恐らく、故意では無いのだろうが、重力に従って揺れた茶色の髪から、片方の猫耳モドキ――人間の耳の位置と同じなので、非常に違和感がある――の全貌が現れる。その内側の毛の生えていない部位は白く、薄い皮膚の下には網目状の桃色の血管が透けて見えた。
「…………」
 特殊メイクだと勘違いをするには優秀過ぎた視力を若干呪いながら、カナンは再び沈黙した。既に手に持った書類の存在すら、彼女の意識から外されていた。
 例えば遠目でこの存在を確かめたのなら、カナンは見なかった事にして早々に帰宅をしただろう。だが、こうも間近に、現在進行形で目が合った状態で素知らぬ振りをするには、猫モドキの存在感は強烈過ぎた。恐らく、この正体を見極め無い限りは、今夜は碌な睡眠を取る事は出来ない程度には。
 故にカナンは、猫モドキを検分するかの様に、じっと彼を見据えた。猫モドキも、彼女のそんな真剣な碧眼をじっと見詰め返した。
 端から見たら滑稽な姿に、二人は気付かない。
 ただ、互いに視線を預け続けた。

 数分、あるいは十数分は過ぎた頃だろうか。
「へっぶし……!」
 やはり人間臭いくしゃみが、猫モドキから零れる。その音にはたと我に返ったカナンは、反射的に腕時計へと視線を移した。
 時刻は日付も変わらん頃。道理で肌寒さを感じる訳だ。
 ぐしぐしと鼻を鳴らしている猫モドキに至っては、まだ春にも達していないと言うのに、見るからに布地の薄い服しかその身に纏っていない。
 暫くは猫モドキの耳や尻尾に注意を引かれていた為に気付かなかったが、人間に例えるなら、彼は自分よりも七、八歳年下だろうか。否、どうやら日系の血が強そうなので、もう少し見た目よりも年嵩なのかもしれない。
 どちらにしろ、その年齢ならば、自力で元の家に戻るなり、雨風を凌ぐ場所に避難するなり出来るだろう。
 が。
「ぐちん! ぐちん!」
 些か奇怪な音をもって、猫モドキはくしゃみを連発する。鼻水をも垂らしかねないその様は、まるで幼子でしかない。
 ここで彼を放置し、暖かい自宅へと帰ったのなら、果たして自分は冷血漢と罵られるのだろうか。……否、生物学上は女だが。
 思わず翌日のニュースに、『怪奇!猫か、人か。 ~猫人間の凍死体!~』等と言ったテロップが流れるのを想像し、カナンはがっくりとその肩を落とした。
 猫人間は兎も角、仮にこの生き物が凍死体となったなら、流石に寝覚めが悪過ぎる。仕方無くカナンは二、三度大きく胸を上下させ、猫モドキとの出会いから初めての意志疎通を試みた。
「―――お前、一人で家に帰れるか?」
 問い掛けに、猫モドキはそれが癖なのか、少し前と同じ様にこてりと首を傾げる。もしや人語を解さないのかとカナンは内心で焦るも、数秒の後に猫モドキは傾げていた首を横に振った。
 その返答は期待外れではあったが、一応の応酬が可能だと分かり、カナンはそっと息を吐いて更に問いを重ねるべく口を開く。
「……家は、何処にある?」
 ぱちり、大粒の目が瞬かれる。そしてやはりと言うべきか、その首は横へと振られた。
「家が、無いのか……?」
 まさかと思い、けれど最後まで聞くしか無い問いを恐々と発すると、猫モドキは再度こてりと首を逆向きに傾げ、何故かそのまま固まり。
 数秒、数十秒経っても瞬き一つしない彼に、もしや新種のアンドロイドか何かかとカナンが非現実的な発想に走ろうとした時。

 こてり。

 細い象牙色の首が、振られた。
 今度は、縦に。
「……」
 どうにも最悪な方向に進みたがる話に、カナンは数年振りにもなる目眩を覚えた。いっそこのまま倒れて、目覚めた時には猫モドキの姿も無く、全て夢であれば良いとさえ思った。
 けれどカナンは残念ながらに軍人だった。簡単に気絶をするには、心身の鍛錬を積み過ぎている軍人だった。
 酸欠で頭は少し朦朧としているが、思考が不可能な程では無い。その頭にくしゃりと片手を突っ込み、深く、長い溜め息をカナンは吐いた。
 結局、思考する必要すら無かったのだ。
 凍死体候補の人間――と言って良いかは甚だ疑問だが――を放置するには冷徹にはなり切れず、また、未知の生物を野放しにするには責任感だけは酷く培われてしまった己を、彼女は過ぎる程に知っていたのだから。
 ただ、答えを先へ先へと延ばそうとしたのは、それと向き合う時間が欲しかっただけで。
 深く吸い込んだ冷たい夜気に冷えた血液が、肺から体へと巡る。それが脳に行き届く頃、カナンも漸く覚悟を決め、猫モドキへと再び視線を合わせた。
「―――……私の家に、来るか?」
 常よりも低く、けれどはっきりした声で、最後となろう問いを投げる。
 猫モドキはぱちりと瞬いた。そしてまた傾げられるだろうと予想していた首は、それに反して肩へと向かず、また、結果的に縦にも横にも振られる事は無かった。
「にぃ」
 相変わらずの、珍妙な鳴き声。それと共に伸ばされた腕が、カナンの腰へとしがみついた。
「……」
 腹の辺りにぐりぐりと額を押し付けられる。首を振るよりも雄弁なその答えに、カナンは今夜二度目の深く長い嘆息を漏らし、柔らかい茶色の髪を軽く叩く事で、どこか期待に満ちた輝く瞳へと応えたのだった。

 そうしてこの日、カナンは猫(モドキ)を拾った。

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 吸血鬼を自称する男と知り合ったのは、まだ十二の頃の事だ。
 それは片親ながら二児を誠実に育ててきた父が、事故により唐突として亡くなった翌日。葬儀の空気とは程遠い、からりと晴れた真夏の日だった。

「私の名はアメディオ・フィリッツィオ。君達の母であるマリア・クロノの古い友人だ」
 突然現れた男が口にした名前―――マリア・クロノが『黒野 真理亜』、つまり実母の名だと気付くのに、桜は数秒の時間を要した。何故なら物心ついた頃から母との記憶は無く、彼女は写真の中の住人でしかなかったからだ。
 存在すら曖昧な母の名を諳じた得体の知れぬ訪問者に、実父を亡くしたばかりの子供が怪訝の眼差しを送ったのは、当然の反応だった。何せアメディオと名乗った男は、名前の通り日本人とは程遠い。しかも「古い友人」と例えた本人は、桜達が知る写真の母より尚若い、まだ二十五に満たないだろう青年なのだから、その言葉の齟齬感は明白である。
 あからさまな猜疑を二人の子供から浴びせられた男は、しかし少し意外そうに片眉を上げて見せただけだった。
「何だ、君達は己の母が何者たるかを教えられていないのか」
 聞き方によっては侮辱とも取れる言葉だ。
 一層眉根を寄せた二人に構わず、男は独特のイントネーションで続けた。
「君達の母、ブラックマリアは二百余年を生きた緩老者――ヴァンパイアと言った方が分かり易いだろうか――であり、私と同族なのだよ」
「嘘だ」
 余りに荒唐無稽な告白にすかさず反論したのは、桜だった。それ自体は反射的な行動だったが、驚きに振り返った八重太と目が合うと、自然と彼女の頭から混乱は去っていった。心の深い部分で、無意識に弟を守ろうとしたのかもしれない。
 長身の男を見上げる形で視線を戻すと、桜はどこか愉快げな彼を睨み付けた。
「何が目的か知らないけれど、吸血鬼なんて、私達を馬鹿にしてるの?」
「何故そう思う」
「そんなの、誰もが想像上の生き物だって知ってる。非現実的過ぎる」
「非現実だって? 今正に君達の前に存在しているのに。現実を受け入れる柔軟さこそ、子供の長所だろうに」
 揶揄とも窘めともとれる微苦笑には、その顔に皺が無いにも関わらず、熟成された精神の深みが滲んでいた。
 ともすれば父よりも老熟した雰囲気に、桜も一瞬の戸惑いを覚える。けれど男の全知を仄めかす態度に、感情が軟化される事は無い。寧ろ押し付け紛いの言動には、神経は逆撫でされる一方だった。
「あんたが吸血鬼? それこそ馬鹿げている。こんなに日が照ってるのに、何でそんな寝言を言えるの?」
 仰いだ夏空を裂く鋭い日差しは、涙すらも奪っていくほどに白い。光の槍でちりちりと痛む眼球は、今にも燃えそうだ。
「成る程、良い皮肉だ。やはり日本人は言葉遊びが巧い」
 男は一つ頷いてから、「だが」と続けた。
「そもそもに君の―――否、世間での吸血鬼観は、大分間違っている。私達は日光を浴びて灰になる事も無ければ、個人的な嗜好以外でガーリックを嫌う事も無い。勿論蝙蝠になる事は質量保存の法則からして論外であるし、十字架などただの装飾品だ」
「それは、普通の人と変わり無いんじゃ?」
 八重太の声だ。どうやら、彼も幾分落ち着きを取り戻したらしい。
 桜がいつも通りの弟の様子に吐息を零す傍ら、男はちらりと視線だけで八重太に笑いかけた。
「如何にも」
 舞台役者の様に、男は両手を広げて見せる。
「元来、私達と人の祖は同一であるとされている。故に根本は同一なのだよ。亜種と言えば良いかな」
「亜種?」
「我々の祖先は、地殻変動によって孤立した島で人とは別の進化を遂げたとされる。突然変異と言うやつだ。―――チャールズ・ダーウィンの『種の起源』を知ってるか?」
「……知らない」
「君達には少し早いかも知れないが、機会があれば他の進化論と併せて一度調べて見ると良い。あれは神の鼻っ柱をへし折った傑作なのだから!」
 何が面白いのか、心底愉快そうに男は笑う。その不可解な反応に思わず姉弟が一歩後退ると、彼ははたと我に返った様子だ。笑声を引っ込めた代わりに、ばつ悪げな苦笑を滲ませる。
「話が逸れてしまったな。簡単に言えば、私の祖先とやらは、閉鎖された過酷な環境下での生活を強いられた。そこでは獲物の血の一滴さえ命を繋ぐ糧となりえた―――それが、一部の研究者の推論だ。つまり、ヴァンパイアたる一番の証拠は、これに尽きる」
 徐にその長身を畳んだ男は、姉弟に対して顔をぐっと近付けた。二人が退くよりも早く、彼は己の上唇を指で掬い上げる。

 ―――……現れたのは、予想に反して至極人らしい[・・・・]歯列だった。

 徒労となった緊張を強いられた桜は憤然と眉を吊り上げたが、しかし次の瞬間には吐き出しかけた怒声を飲み込む事となる。
「う、あ……」
 喘ぐ様な弟の声に、咄嗟に彼の手を握る。
 掌の粘ついた汗がどちらの物かは分からない。そんな事よりも、男の犬歯の裏から現れたそれ―――陰になっているが、生々しく唾液に濡れて光る鋒は誤魔化し様もない。猫の爪に似た『牙』から意識を逸らす事は、いくら気の強い桜でも不可能だった。
 時間にしたら数秒。けれど常識を破壊された瞬間は永遠に等しいのだと、初めて思い知らされる。
「……そこまで青ざめられると、やはり傷付くのだが」
 いつの間にか元の通り背筋を伸ばした男が、小さく肩を竦めて見せる。おどけた態度に少しも二人の緊張は緩まなかったが、それでも空気にそぐわない仕草は思考を再開させる切欠となった。
「それは、本物……?」
 恐る恐ると言った風に、八重太が聞く。往生際の悪い理性は、桜の中にも残っている物だ。弟と違い口にはしていないが、男はそれも理解しているらしい。
「疑り深い子等だ。なんなら、指の一本でも差し出してくれたら、映画の世界を実践してあげるが?」
「ぃ……! 遠慮しときますっ」
 慌てた様子で八重太が首を振る。
 無理もない。冗談混じりの口の上で細められた本気の目には、識閾下で背中の毛を逆立てさせる力があったのだから。

この話は現在連載中の話がある程度収まったのちに続きを書く予定です。

※※※※

 ―――私は誰だ?

 浮上した意識と共に男のほの暗い脳裏から浮かんだのは、そんな問いだった。
(私は、誰だ……?)
 今度は意識して、男は口の中で小さくその問いを転してみた。しかしそれに対した言葉は霞んだ記憶の中に見当たらず、得体の知れない焦燥だけが胸中でその存在を鈍く主張してくる。

 私は。
 わたしは。
 わたし、は……―――

 繰り返す。その終わりを知らぬ行為の狭間から生まれ始めたのは、紛れも無い狂気だったのだろう。重ねた言葉は澱となって体表を覆い隠し、一層己の正体を闇へと突き落とした。

 ―――私はっ!!

 自意識を失いかける、その恐怖に発狂しそうになった瞬間、しかし突如として降ってきた女の声が、それを遮った。
「―――!」
 高く、透明な声は、硝子に似て体を覆う黒い澱を切り裂いていく。光が、亀裂から男の姿を徐々に照らし出す。
「―――!」
 女が繰り返す、その音韻が一つの名前だと気付いた瞬間、澱は全て取り除かれ、男は満ち満ちた光の中で漸く己の姿を見出した。
(そうだ、私は……)
 固く瞑っていた目を、男はぎこちなく開く。正しい意味で光を得た彼の目には、泣き濡れた女の顔が光輝を纏って映し出されていた。

*

「クドラ、ねえクドラ、聞いてるの?」
 肩を揺すられ、閉じていた瞼を持ち上げる。午後の微睡みに霞んだ視線の先には、こちらを覗き込む様にして睨み付けてくる女の姿があり、クドラは彼女の不機嫌を察して苦笑した。
「もう、また人の話を聞かないで寝てたわね?」
「すまん」
 凭れていた椅子から背を離し、見慣れた濃茶の瞳を見返して、真摯に謝る。そのついでに柔らかに波打つ煉瓦色の髪を撫でれば、彼女―――ミランは気勢を殺がれたかのか、色濃い眉でハの字を描いた。
 クドラが女がその表情に至った理由が分からず小首を傾げると、彼女は首を緩く振って吐息混じりに小さく笑う。
「何か、クドラが直ぐ謝るのも、変な感じ」
「そうかな?」
「そうよ。だってあなた、いつも私が怒ると屁理屈をこねてたじゃない」
 そうだろうか。そうなのかもしれない。
 肘掛けに置いてあった手で顎を撫で、言われた言葉を反芻すれば、確かに記憶に思い当たる節がある。
「……酷く心配をかけた後だからな。殊勝になっているんだ」
「それ、普通自分で言うかしら」
 言葉に険はあるものの、先の困った様な微笑とは違い、ミランは朗らかに声を上げて笑った。
 彼女の声は、硝子細工の鈴に似て、耳に心地よい。笑うと一層ころころと軽やかに転がる声は、くしゃりと愛嬌に満ちた笑顔も相俟って、いかなる時であろうとクドラを幸福な気分にさせる。
 だが、その声が収まる頃には、彼女の少し太めの眉は再び萎れていた。
「でも、さっきはあんな事言ったけど、あまり無理はしないで。眠気を覚えたら素直に言って。それだって、こないだの後遺症なんだろうから」
「ああ……」
 ぱちり、ぱちりと大きな目が瞬きで語る心情を、クドラは理解しているつもりだ。だから彼は頷いて、不安に曇った女の頭を抱いた。
 そのまま深く息を吸い込むと、胸に柔らかな藁と薬草の香りが満ちる。その彼女特有の香りは、クドラにまだ遠くは無い過去を彷彿とさせるのに十二分な切欠となった。

*


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